あるキリスト者からのメッセージ

今から2ヶ月前、私たちがまだレントの時を過ごしていた頃、わたしはある一人のキリスト者から以下のような文章をいただきました。改めて読み返します時、今、私たちが聞くべきメッセージがここにあると思いましたので、シェアさせていただきます。主は私たちをどのように見ておられるのでしょうか。私たちはここからどのように歩んで行ったらよいのでしょうか。


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わたしたちはこの世界、またわたし自身を、目を覚まして見つめているでしょうか。見つめようとしているでしょうか。わたしたちはこのレントの季節に、「目を覚ましていなさい」といわれるイエスさまの言葉が聴こえているでしょうか。共に祈りを捧げる前に、レントの光のもとでわたしたちの姿を振り返りたいと思います。

イエスさまは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。命を捨てることによって、神の国への門を開いてくださったのです。主日に礼拝を捧げられることはもちろん、今こうして神さまに祈ることができるのはすべてイエスさまの十字架と復活による一方的な恵みです。

今、わたしたちは新型コロナウイルス感染症に対し、自分や周りの人の生活と健康を守るために、予防意識を高めていると思います。あらゆるデマやこの世の混乱に惑わされないように何が正しい情報なのかを見極めることに努め、責任をもって判断し、正しいと思う選択ができるように日々心がけていると思います。各教会・教区も必死にこの感染症に伴う対策をとっています。

わたしたちは普段、福音を生きることにこれだけ必死になっているでしょうか。
イエス様の声に耳を澄ますことにこれだけ必死になっているでしょうか。
永遠のいのちに至る道を本気で周りの人々と共に歩もうとしているでしょうか。
この世の不正義や悪、自らの過ちから逃げずに向き合い、そこに注がれる神の赦しと光を、本当に心を砕いて見出そうとしているでしょうか。

旧約聖書には、神の裁きに関連するものとして、しばしば疫病が起こされたことが記されています。今、多くの教会で主日に集まることが難しくなりました。これは、何か特別なことが突然起こったのでしょうか。わたしたちの傲慢さや神への背きが目に見える形となって、現れただけではないでしょうか。

聖書には、神の民が散らされたことや迫害に遭ったことが記されています。それは、神の民の歩みにおいて、集まれないということが度々あったことを教えています。3月17日は、カトリック教会では、「日本の信徒発見※」の祝日です。1865年3月17日、この日は、世界でも歴史的な出来事として記録されています。当時、建てられたばかりの大浦天主堂(長崎)で、フランス人宣教師のプチジャン神父に、十数名の人々が「わたしたちは皆、あなたと同じ心です」と信仰をもっていることを告げた日です。公に集まることができなくても、聖餐式が行えなくても、250年もの間、信仰を守り抜き、受け継いできた人々です。※正式には「日本の信徒発見の聖母」日本固有の祝日。
聖書や歴史を通して、集まれることの恵みをわたしたちは知っているはずです。しかし、この集まれることの恵み、公に礼拝を捧げられることの恵みがどんなに尊いものであるか、本当に目を留めてきたでしょうか。
主日に教会に集い、主の食卓を囲めることは当たり前ではありません。それは、“当たり前の日常”の延長線にあるものでもありません。限りない神の愛の業によるものです。
礼拝を捧げることは、そこに神の御子キリストを十字架にかけるほどの罪がわたしたちにあることをも意味します。わたしたちの罪が、キリストを十字架にかけ、殺したのです。しかし、それで終わりにされないのがわたしたちの主である神です。どこまでもわたしたち人間を赦し、救いを示されました。この神の愛によって、わたしたちは教会に集い、礼拝することが赦されているのです。
そのことを忘れ、あるいは頭の片隅にだけおき、礼拝で恵みをいただくことばかりに目を向けていませんでしたか。教会で祈りをささげるときでさえも、自分中心になっていませんでしたか。
教会へ行き、教会の門をくぐり、礼拝堂へ入る。当たり前のように礼拝堂の椅子に座り、祈る。
罪ある人間が神のもとに帰ってこられるとしたら、それはキリストの死と復活によるものです。神による赦しと愛の招きでしかありません。そのことをわたしたちは本当に知っているでしょうか。

この機会に典礼の意味や祈りについて、また連帯することについて改めて見つめ直そうという声が様々な教会から聞こえます。それはとても良いことだと思います。ですが、それだけで本当に良いのでしょうか。
「この機会に」「こういうときだからこそ」ではなく、「こういうときでないと」見つめようとしてこなかったわたしたちの姿を省みることなしに、何を見つめ直すのでしょうか。心の底からの悔い改めを捧げ、赦しと憐れみを求めて、始めて神の眼差しで「見つめ直す」ことへと招かれるのではないでしょうか。
神の御前で、自らの姿を振り返り、悔い改めることをしなければ、人間は忘れてしまいます。恵みに感謝を捧げながらも、そこに回心がなければ、与えられた恵みさえも忘れてしまう。これが神の民の歴史です。これがわたしたち人間の病であり、罪です。

今回の新型ウイルスと同様に、むしろそれ以上に人間の罪、霊的な病は深く、自覚がないままに感染していることも往々にしてあるのではないでしょうか。キリストに従うといいながら、利己主義、効率・生産主義の価値観が、判断の基準となることがありませんか。消費社会に加担する生き方をしていませんか。差別や搾取、この世の不正義にどんなに加担しているでしょうか。遠い国の人々を犠牲にしてまでも守ろうとしている快適性、利便性がありませんか。神が愛し造られたこの世界をどんなに破壊しているでしょうか。見えていないもの、聴こえていない声がありませんか。真の回心を怠り、当たり前のように教会で礼拝に与る、この姿・この心は神の目から見て、健康といえるのでしょうか。

神さまが今一番悲しんでおられることは、わたしたちが主日に教会へ集うことが困難となっていることや聖餐式が行えないことでしょうか。

ウイルスの感染の拡大が報道される国は、ほとんどが先進国です。
では、途上国では感染は広がっていないのでしょうか。そうではありません。
今日、皆さんに「まず手を洗ってください」とお願いしました。それは、清潔な水が出て、石鹸があるからです。「手洗いをしてください」わたしたちはこれが徹底できて、共有できる恵まれた環境にいるのです。衛生環境が整っていない地域の人々に、どれだけ思いを寄せているでしょうか。
カトリック教会はすでに公のミサを中止にしました。プロテスタントの教会でも教会活動の中止や延期を始め、礼拝においてもカトリック教会同様の判断をしているところもあります。
学校は休校です。ある種の公共施設をはじめ、教会、修道院もやむを得ず閉鎖しているところが少なくありません。閉鎖・休校・自粛、すべては人々の命と健康を守ることを最優先したからです。
家で虐待を受けている子どもたち、各地での炊き出しを糧としているホームレスの人々、休業支援を受けられない日雇いの人々、貧困家庭、これらの人々の命と健康は守られているのでしょうか。消費社会のサイクルの中で生計を立てている人々の中には、今、経済的な危機だけではなく命の危機にまで追い込まれている人も少なくありません。

これらはコロナウイルスによる影響、弊害なのでしょうか。外から来たウイルスのせいなのでしょうか。わたしたちは悪と見なすものを外側におき、責任を他者に押し付ける心の傾向があります。それを知っていてなお、今、社会や世界で起こっている様々な混乱や痛みは、コロナウイルスという悪(敵、害)がもたらしたものと本当に思うのでしょうか。
わたしたちの普段の生き方、この世界との向き合い方、わたしたち一人ひとりが参与しているこの人間社会の仕組みがもたらしているものではありませんか。
十字架につけろと叫んだ群衆の姿に示されていたように、わたしたち自身の姿に示されている病がありませんか。キリストの十字架が示していることを、わたしたちは目を開いて、悟らなければなりません。

わたしたちの日々の生き方は、この世界のすべてと繋がっています。
わたしの心、行い、選択によって、この世界に何をもたらしているのか本気で見つめようとしたことがありますか。わたしたちの姿は「世の光」「地の塩」「光の子」として、主に託された使命を熱心に果たそうとしている者の生き方となっているでしょうか。この世界の現実は、わたしたちの生き方の反映でもあります。今、目を開くならば、何が見えるでしょうか。
ウイルスでなくとも、わたしたちはいとも簡単に、言葉や行い、態度をもって人を傷つけ、人の心を殺すことができます。そして、良くも悪くも誰かの姿によって影響を受け、またわたし自身の姿によって誰かに影響を与えることもあります。どんなウイルスよりも感染力があるのは、わたしたち一人ひとりの姿であり、心のあり方ではないでしょうか。わたしたちキリスト者の姿がこの世に倣うものとなっていませんか。

今日、主が再び来られるとしたら、わたしたちはどのようにこの世界を見つめ、どのようにわたしたち自身を見つめるでしょうか。そして、どのような生き方を今日、選択するでしょうか。
「その時」はいつ来るかわかりません。だから「目を覚ましていなさい」とイエスさまは言われます。このイエス様の言葉を繰り返し聴いているにも関わらず「その時」はずっと先の未来のことだと思っていませんか。レントの季節が毎年巡ってくることは当たり前ではありません。神の憐れみです。神の憐れみによって、わたしたちは「目を覚ましていなさい」と今年も聴くことができるのです。神が愛のゆえに繰り返し、繰り返し、わたしたちに語りかけ、聴かせてくださっているのです。「目を覚ましていなさい」今、この声が聴こえていますか。

イエスさまは「あなたがたはわたしの声を聞き分けることができる」と、わたしたちを信頼しておられます。そして、声を聴くことのできるわたしたちに「羊飼いは羊のために命を捨てる」といわれ、わたしたちのために命を捨てられました。
イエスさまが命を捨てられたのはわたしたちのためだけではではありません。すべての人のためです。イエスさまが命を捨ててまでも救おうとされた命をわたしたちは大切にしているでしょうか。イエスさまから受けた命をわたしはどのように生きているでしょうか。わたしたちの日々の生き方は、この世界のすべてと繋がっています。
「わたしは良い羊飼(ひつじか)いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
このイエスさまの言葉を共に聴き、応えていくことができるように、祈りましょう。