自宅でささげる「祈りでつながる主日礼拝」について

2020年8月1日
 頌栄教会牧師 清弘剛生

主の恵みと平和がいつも皆様と共にありますように。
 私たちは現在、主日には一部の人が礼拝堂に集まり、他の人々は基本的に「祈りでつながる主日礼拝」という式次第を用いて、それぞれの場所で礼拝をささげております。このような形で主日を過ごすことも長くなりましたので、改めて私たちが毎週行っていることの意味をご説明させていただきたいと思います。
†     †     †
 私たちが日曜日に教会に集まるのは共に礼拝をささげるためです。教会で行われているのは「聖書の勉強会」でも「牧師の説教を聴く会」でもありません。「共同の礼拝」です。このようなことは、今さら改めて書くようなことでもないでしょう。しかし、皆で集まることができなくなって4ヶ月が経ち、この期間を通して私たちは改めて、「何のために集まってきたのか」を問いかけられているように思います。

 もし教会で行っていたことが私たちにとって「共同の礼拝」ではなく、例えば「聖書の勉強会」や「牧師の説教を聴く会」であったなら、集まれなくなって牧師の説教を聴けなくなった時点で、日曜日に行っていたことは継続できなくなってしまうでしょう。日曜日に聖書を開くことすらなくなるかもしれません。

 しかし、もし私たちが日曜日に共に神を「礼拝するため」に集まっていたのなら、今回のようにたとえ集まれなくなったとしても、礼拝することは継続できるのです。それぞれが置かれた場において、同じ時を聖別し、共に神の御前に身を置き、礼拝することは継続できるのです。

 そのために配布しましたのが「祈りでつながる主日礼拝」という式次第です。説教は聞けませんが、順序はこれまで礼拝堂で行ってきた礼拝とほぼ同じですから、それぞれの場においても同じように礼拝をささげることはできるはずです。また、礼拝堂において、「共に」礼拝していることを意識していたのなら、同じ場所に身を置くことができなくても「共に」礼拝している信仰の仲間を意識することもできるはずです。そのように、共に礼拝することは、わたしたちに変わることなく恵みとして与えられているのです。

 パウロは言っています。「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(エフェソ2:17‐18)。このことは既に起こっていることです。キリストは私たちの罪を贖ってくださり、私たちは共に一つの霊に結ばれて神に近づくことができるのです。礼拝者として改めて皆で共に「共同の礼拝」をささげ、与えられている恵みの中に生きようではありませんか。
†     †     †
 さて、以上述べてきたこととの関連において、しばしば耳にする質問にお答えしておきたいと思います。「頌栄教会は、なぜ他の教会がしているように、礼拝映像の配信や礼拝説教の配信をしないのですか。なぜオンライン礼拝をしないのですか」という質問です。

 私は他の教会がしていることを否定するつもりは全くありません。それぞれ考えがあってそうしていることなのでしょう。では私たちはどうするのでしょう。

 先にも述べましたように、「祈りでつながる主日礼拝」を配布しましたのは、同じ場所に身を置くことができなくても、皆が一つの霊に結ばれて共に「共同の礼拝」をささげるためでした。皆が同じ条件で、霊的に集うことを何よりも大切にしたいと思いましたので、礼拝のライブ中継を行うという選択は、頌栄教会としていたしませんでした。インターネットにアクセスできる人とできない人とでは、本質的に共に「集う」ことが困難になることが考えられたからです。

 それだけではありません。「礼拝のライブ中継」は、主体的な「礼拝者」であるはずの人を、受け身な「視聴者」にしてしまう可能性を伴っています。「視聴者」であるならば、関心の中心は視聴することによって「自分が」何を受けることができるかです。その時、日曜日に行われる礼拝は「目的」ではなく「手段」となってしまいます。「視聴者」であるとはそういうことです。

 本来、礼拝においては礼拝することそのものが目的であるはずです。私たちが神を礼拝するのは、神が礼拝されるべきお方だからです。先に述べたように、私たちが神に近づくことができるように、既に神は計り知れない恵みを与えてくださっています。その恵みに応えて、私たちの体を「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」(ローマ12:1)。それが礼拝です。

 先に述べましたように、私たちは集まれない期間を通して、改めて、「何のために集まってきたのか」を問いかけられているように思います。頌栄教会はいったい何のために集まってきたのでしょうか。そして、これからも何のために集まるのでしょうか。――私たちは「主よ、私たちはあなたを礼拝するために集まるのです」と答えたいと思うのです。《礼拝することそのもの》を目的とし大切にする「礼拝者」として、そのように答える私たちでありたいと思うのです。そして、「共に」礼拝することを大切にする教会として、「主よ、私たちはあなたを礼拝するために集まるのです」と答えたいと思うのです。そのための現在を私たちは過ごしているのです。そのために、「祈りでつながる主日礼拝」によって「共同の礼拝」を行うという選択をしてきたのです。

 どうぞ主の日の礼拝を大切にしてください。これまで頌栄教会が主の日にささげる「共同の礼拝」に加わっていなかった方も、ぜひ加わってください。「祈りでつながる主日礼拝」の式次第はいつでもホームページ(ブログ)からダウンロードすることができます。インターネット環境のない方には郵送しますので、新しいコピーをお求めの方はいつでもお申し出ください。すぐにお送りいたします。